「一つになるため」(ヨハネの福音書17章20~23節)

「一つになるため」(ヨハネ福音書17:20-23)

17章1節 「これらのことを話し終えてから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』」

ヨハネ福音書17章は、イエスさまが十字架にかかられる前夜のお祈りです。別名、大祭司のとりなしの祈りとも呼ばれます。確かに神の宮の祭司が人々のためとりなし祈るように、イエスさまも自分が十字架で死んだ後、残されることになる弟子たちを案じて、とりなし祈ったのです。

11節 「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」

このように弟子たちを気づかっていくイエスさまが印象的ですが、でもそれだけでなく、この祈りの中でイエスさまは、深く天の父と交わり、言葉を交わしてもいます。ですからこの箇所を読むと、祈りが神との交わりなのだと、実によく分かります。祈りは神との交わり。深い豊かな、慰めと癒しの交わりです。と、そんな祈りが終盤に差し掛かった頃、この祈りの中に突如、私たちの事が登場してくるのです。

1.一つにしてください

20節 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」

この20節は驚きです。皆さん、ここで言う「この人々」って誰ですか。そう、これはイエスさまがここでとりなし祈っている弟子たちのこと。注目すべきは、その次「彼らのことばによってわたしを信じる人々」。これはいったい誰のことですか。これは弟子たちを通して信仰に導かれる将来のクリスチャンたち。つまりイエスさまの孫弟子、さらにはその先のひ孫弟子、さらにその先の先、遥か先にいる私たちの事もここには含まれてくるのです。ですから私は20節読んだ時、何だか自分の名前を呼ばれたような気がしましたよ「五十三」のためにもお願いします、と。でもここは「信じる人々」と複数ですから、ここではイエスさまが、私たち谷原キリスト教会のために祈った、という方がいいかもしれません。

いずれみせよ、この20節の驚きは、その祈りの視野の広さです。ここでイエスさまは祈りの視野を広げて、私たちをもその中に取り込んでいく。イエスさまは十字架の前夜に、実は私たちのためにも祈ったのです。「父よ、この谷原キリスト教会をお守りください」と。決して大げさでなく、この祈りに支えられたからこそ、この教会は十六年という歳月を刻むことができたのだと、私はここを読んで信じました。私たちの教会が、いろんなピンチがありながらも、ここまで歩んで来られたのは、このイエスさまの祈りがあったから。「恐れるな、小さい群れよ」と祈ってくださった、イエスさまの祈りあればこその十六年であったと思います。

ところでイエスさま、ここで私たちのためにいったい何を祈られたのですか?

21節前半 「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」

イエスさまは、未来のクリスチャたち、つまり教会を一つにしてください、と祈っています。この「一つに」という願いは、この祈りの中で何度となく繰り返されますが、それほどにイエスさまは教会が一つとなることを願い、祈ったのです。

「一つになる」「一致していくこと」。教会だから当たり前じゃないかという声もあるでしょう。でも、歴史の現実は違います。2000年の教会の歴史は、悲しいかな分裂や争いを重ねた歴史。イエスさまの最初の弟子たちだって、「誰が一番偉いか」と言い争っていたじゃありませんか。悲しいけれど、それが人の現実です。だから、です!だからイエスさまは今も天で祈っておられるでしょう。一つとなるように。信じた者が一致して、一つ教会になるように。

これは人が信仰を持ち、成長するということが、いったいどういう事なのかを、よく物語っています。信仰というものは、個人的なものではないのです。自分が信じて、神さまと関係があれば、それでいいかと言えば、そうではない。23節では「彼らが完全に一つに」ともありますが、信仰をもって成長していくと、そのゴールには一つに結ばれた教会の姿が見えてくる。信仰は個人的なものではなく、信仰を持った人は教会の交わりに加わり、一つに結ばれていく中、完成に至るのです。キリスト教信仰には、一匹狼という考え方はない。信仰は、キリストのからだと呼ばれる教会の一致、教会形成に向かっていくのです。

2.祈り合う中、一つとされる

「信じるすべての人を一つにしてください」。私たちも、この祈りを聴いたからには、それに応えたいと思います。教会、私たちが一つとされていくために、できることは何か。二つのことを勧めたいと思います。

皆さん、ここで言う一致とは、どういう一致だと思いますか。これは、ただ仲が良いとか、争いがないとか、そういうことではなく、信仰的・霊的な一致のことです。しかも、この一致には見本或いは模範があるのです。例えば21節「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つに」。これは、父なる神さまとイエスさまが一つであるように、兄弟姉妹たちが一つに、ということですね。また23節「わたし(イエスさま)が彼ら(弟子たち)のうちにいて、あなた(天の父)はわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです」。ここにも父と御子イエスさまの交わりの中、教会が一つになるようにという、そんな祈りがあります。人と人とがつながって、ただ仲が良ければいいというのではない。天の父とイエスさま、つまり神との交わりの中で、教会が一つにされるようにというのです。教会の交わりが、この世間一般の交わりと違うのは、人と人がただ繋がっているのではなく、真ん中に神との交わりがあるということです。

私たちは、ただ仲良くするのではないのです。真ん中に、神との交わりを置きながら一つになっていくのです。そういう目標を掲げる時、私たちがまず最初にできることは何でしょう? 祈りをおいて他にないのではありませんか。ここでイエスさまは、信じた人たちが一つになるように祈りました。だから私たちも祈りを通し、神を真ん中に置き、祈りの中、兄弟姉妹と一つに結ばれていきたいと思います。

教会には、この世間には到底マネの出来ない一致があります。教会の宝と言ってもいい。それは互いのために祈り合う、祈りの絆です。自分のためだけでなく、お互いのために祈り合う。そんな教会の絆は本当に堅いのです。教会が、祈り会を重んじて来たのも、そこに理由があります。教会が互いのために集まり、祈り合う。考えてみれば、これは神の家族として当然のことでしょう。家族ですから、互いのことを案じ、気遣い、祈り合う。そうやって教会の一致は固くされていくのです。

ですから改めて皆さんを、毎週水曜の祈り会に招きたいと思います。家族として共に集まり、祈り合い、重荷を下ろして支え合う。これはごく自然なこと。この自然な祈りの交わりが私たちを堅く結んでいくのです。祈り会へどうぞいらしてください。もちろん忙しさ、体力的にきつい等々、いろんな制約があるでしょう。そういう場合は一か月に一度とか、あるいは隔月、数ヶ月に一度とか。それでも難しければ半年に一度。せめて一年に一度、チャレンジされてはいかがでしょう。「先生、あまり言わないでください。私はどうしても無理です」と、そういう方は(大嶋牧師力作の)祈りの手帳や週報を用いて、家でぜひ互いのために祈ってください。かくいう私も週の半分千葉にいて来られません。だから毎朝千葉で、皆さん一人一人の名前を挙げて祈っています。家族ですから、病の方があれば気遣い祈り、試みに遭っている方がいれば案じて祈る。また、一人で抱えきれない重荷があるならば、ぜひ「祈ってください」と分かち合って欲しいと思います。神の家族は互いに祈り合う。これは、この世にはない交わり。ですから、この交わりは世の中にアピールしていくのです。

私の出身の教会で以前、Yさんという男性が信仰を持ちました。キッカケは祈りです。その方、初めて教会に来た時、礼拝の司会者が、教会の病の方々のために祈っているのを聴いて、いたく感動したそうです。気が付くと感動のあまりツーッと、涙が一筋。「ああ、この世の中に、互いを気遣い祈りあう、こんな場所があったのか」と。これをキッカケに彼は教会に通い始めたのです。

今の世の中は分断された世の中です。インターネットも、自分と同じ考えの人の情報ばかりに自然に繋がるようになっていて、いろんな立場や意見の人と広く交わり、繋がることが難しい時代。むしろ、人間関係に仕切りの壁ばかりが増えていくのです。そんな生きにくい時代の中で、教会には互いのためにとりなしあう祈りがある。そんな祈りの一致に触れる時、人々は教会に神の愛があることを見るのです。23節にありました。神がイエスさまを愛されたように、そのように教会を、そこにいる一人一人を愛していることをこの世は知るようになる。祈り合う教会の内には、確かに神の愛があふれていくのです。

先週日曜、静岡県の教会で集会の奉仕をしてきました。「神の家族として生きる」というテーマでしたが、集会後の交わりの時間、ある方が、長い信仰生活の中で今、疲れを覚えていると、正直に打ち明けられました。「先生、私は最近、祈れないのです」と。その方、とても誠実な方で、正直に胸の内を明かしてくださったのです。最近、気持ちに余裕がなくて祈れないのだと。

何と言って励ましたらいいものかと、私も一瞬戸惑ったのですが、神さまが私の口に適切な言葉をくださいました。「祈れない時というのはあります。私も台湾で燃え尽き、ダウンした時は祈れませんでした。でも、安心してください。たとえ自分で祈れなくとも、誰かが必ずあなたのために祈っています。教会は神の家族ですから」と。そして、台湾の賛美歌を短く歌ったのです。<有人在為你禱告>(誰かがあなたのために祈っている)という歌で、私は台湾にいて異文化の中で苦労した頃、教会の祈り会で歌ったこの歌に励まされたのです。

歌い終わった後、この教会の神の家族の祈りの交わりの中で、重荷を下ろしてくださいね、と申し上げました。皆さん、これが私たちの宝です。互いに祈り合う。祈れない時には、他の誰かの祈りに支えてもらう。祈りの中で、教会は神との交わりを深め、一つとされていきます。

  1. 主が与えた栄光の中で一つにされる

さて、私たちが一つに結ばれるもう一つの道、それはイエスさまが与えてくださった「栄光」によって一つとされる道です。

22節 「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」

皆さん、この「栄光」って分かりにくいのではないですか。これはもともと天の父がイエスさまに与え、イエスさまがそれを弟子たち、私たちにも分けてくださった「栄光」なのだとあるけれど、正直、よく分からないかもしれません。

でも、ヒントがあります。1節です。

「これらのことを話し終えてから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』」

この祈りを読むと、これから何か大変な事が起ころうとしているらしいということは分かります。皆さん、この翌日、いったい何が起こるのですか。そうです。十字架です。イエスさまは十字架にかかって死ぬのですが、この十字架の苦難を指し、そしてその向こうにある復活も見つめながら、「栄光」とイエスさまは言われたのです。

ヨハネ福音書において「栄光」はキーワードです。それは神の国の福音を宣べ伝える上での苦難の使命を意味します。その使命の果てに、イエスさまは十字架で命さえ捧げた。イエスさまは、この栄光(苦難の使命)を弟子たちにも、そして教会にも与えました。だから私たちも、神の国の福音を伝える、この使命のために汗を流し、時には涙を流し、そして人が救われた時には喜ぶ。私たちは、この使命を一緒に担う中で一つになるのです。神の国の福音宣教、時に苦しくとも、この使命を一緒に担う中で、教会は一つに堅く結ばれていきます。

昨年12月に谷原キリスト教会は、千恵子先生を伝道師に迎えると総会で決議しましたが、その後の引き継ぎの中、谷原キリスト教会から後任牧師に期待する五項目という文章をいただきました。私も夫として目を通しましたが、印象的だったのがその一番目、石神井公園駅の北口宣教という使命を、共に担って欲しいという呼びかけでした。それを読んで、私も奮い立つような思いを抱きました。

今も伝道が難しい時代が続いています。ことに北口宣教は厳しかったようで、多くの教会が開拓を試みながらも、ことごとく撤退していったという。でも私たちは続いています。そんな私たちの教会とて、決して華々しく伝道が進んだとは言えず、皆さんの中には、挫折ともいえるような難しさを感じて来たかたもおられると思います。しかし、それでも私たちは北口宣教をやめませんでした。そして、この苦難の使命、栄光ある使命を一緒に担って欲しいというのです。

皆さんのそうした招きに応じて、私は皆さんと一緒に、困難は多くとも挑戦していきたいと思います。時が良くても悪くても、と御言葉が励ますように、手を変え品を変え、守りに入ることなく挑戦していきたいと祈っています。

最近のリサーチでは、教会が地域社会の福祉を担うことが大変有効であるという報告が出ています。でも多くの教会が尻込みして、なかなか踏み出せない現実もあります。でも谷原キリスト教会は、教会の年間祈祷課題の中で、地域の福祉に一歩踏み出そうの祈りの課題を掲げました。皆さんは地域の福祉を担う思いを持っておられます。そして、二年前の祈祷課題にもこれが上がっていましたね。それ以来、私と千恵子の心には、谷原キリスト教会の名前が印象として残っていたのです。その皆さんの中にこうして加えていただいたことを、私は誇らしく思っています。

教会の一致は、内輪の交わりで終わる一致ではないのです。いつの時代も、教会が一つになると、外に向かう愛となって溢れ、果敢に地域の貧しい人、孤独な人、子どもたち、福音を必要とする人に届こうとしていくのです。そんな教会の一致は、この世にインパクトを与えます。私たちが一つになって使命を担う姿を見ながら、世の人は、21節、あなた(神)がわたし(キリスト)を世に遣わしたと知り、救い主が確かにいることを知るようになるのです。お祈りします。

 

天のお父さま、感謝します。神を真ん中にした祈りの交わりの中、私たちを一つに結んでください。そして駅の北口を福音で満たす、この栄光ある使命を果たさせてください。そのための午後の総会も豊かな祈りの時、宣教の使命を確認する時となりますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!