「ひとり子としての栄光」(ヨハネ 1:1~3, 14, 18)

齋藤五十三師

信仰の基礎として、私たちは使徒信条を学んでいます。前回は「父なる神を信ず」でした。本日は、「ひとり子を信ず」です。

 

1.初めにことばが

1~3節:「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

 

ここで言われる「ことば」とは、いったい何でしょう。もっと正確な尋ね方をすれば、この「ことば」とは、いったい誰のことでしょう。

ご存知の方が多いと思いますが、これはイエス・キリストです。イエスさまは別名「生ける御言葉」とも呼ばれます。しかし、それにしてもなぜヨハネはここで唐突に、イエスさまのことを「ことば」と呼んだのでしょう。何の断りもなく福音書の冒頭から「イエスさま」をいきなり「ことば」と呼んで紹介するヨハネ。考えてみれば、これはとても不思議です。この理由については、最後に答えを申し上げますが、とにかく今は、これを主イエスのもう一つの名まえとして心に刻みたいと思います。

今から千何百年も昔、キリスト教会が生まれて間もない頃の指導者たち、教会の父と書いて、教父と呼ばれる人たちがいました。その中のある教父が、イエスさまが「ことば」と呼ばれることについて、こんなことを言っています。「これに深入りしすぎるのは軽率、これを信じるのは聖なる敬虔、そしてこれを知るのは永遠のいのちである」。この教父の言葉を受けて、まずはヨハネ福音書1章が主イエスを「ことば」と呼んでいることを、そのまま受け止めたいと思います。これはイエスさまのもう一つの名前であると、このことを子どものように素直に受け止め、信じたいと思います。

 

さて、このヨハネ福音書ですが、福音書というからにはイエス・キリストの生涯を扱っているわけです。しかし、その語り出しは、他の三つの福音書とずいぶんと違っていて独特です。普通、福音書の始まり方と言えば、クリスマスから始めるのがスタンダードなのではありませんか。マタイのように、またルカのように、クリスマスから始めてキリストの生涯を語り始める。それが普通だと、私たちの多くは思います。しかしヨハネは違いました。

皆さんは朗読した1~3節を読んで、何をお感じになったでしょう。聖書の有名なある箇所と、よく似ていると思いませんでしたか。そうです。創世記1章の天地創造「はじめに神が天と地を創造された」という箇所とよく似ています。そのようにヨハネは、クリスマスではなく天地創造から始め、「すべてのものは、この方(ことば)によって造られた」と、イエス・キリストのストーリーを始めていくのです。

皆さんの中には、天地の創造をしたのは、父なる神さまだけだと思っておられた方もあるかもしれません。しかし、ことばなるキリストは天地創造の前から神とともにおられ、神とともに働き、この世界を造られたのでした。そういう意味でヨハネが示す「ことば」なるキリストは、まことに大きなキリストなのです。

普通このお方に対して、私たちが抱く印象は、人に近い、人に寄り添うキリストです。「仲介者、仲立ち」と呼ばれ、あの砂浜に残った足あとの詩で知られるように、人に寄り添うお方、それがこのお方に対してキリスト者が抱きやすい一般的なイメージです。しかし、ことばなるキリストは、元々は、父なる神に近いお方でした。世界の創造の折り、創造主の神と共に働き、神とこの世界との仲立ち、仲介役となったのもキリストだったのです。3節にこうあります。「すべてのものは、この方によって造られた」。ここは、原文によれば「この方を通して(或いは、この方を介して)造られた」とも訳せる所で、そのように神と世界の仲介役を、キリストは天地創造の初めに担ってくださっていました。

ですから、まずはこの大きな「ことば」、まことに大きなキリストを胸に刻み、その前に平伏し、礼拝したいと思います。神に特別に近く、神と共におられた「ことば」なるキリスト。その神との特別な近さゆえに、この方は「神のひとり子」とも呼ばれることになります。

 

2.住まわれた方の栄光

14節:「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

これはよく考えると驚きの一言です。神とともに世界をつくったことばが、何と人となって私たちの間に住んだというのです。天で神のもとにおられたひとり子が、地上にくだり、人となって私たちの間に住むということ。それは例えるなら、犬の飼い主が、犬を愛する余り、犬の暮らす犬小屋で、ある日一緒に暮らし始めるようなものです。人が犬小屋で暮らす!そんな窮屈なこと、誰が敢えてするだろうと私たちはすぐに思いますが、神のひとり子が地上に住むとは、まさにそういう窮屈極まりない、驚きの出来事だったのです。神のひとり子、神の国の王子が、地上にくだって人と共に生きる。そこにはいろんな制約や苦しさがあり、それはまことに窮屈な話だったのです。

しかも、ここで「住まわれた」という言葉は面白い言葉で、本来はテントとか、幕屋を張るとか、そういう仮住まいの意味で使う言葉です。つまり、ひとり子が降りて来て人の間に住んだ時、それは立派な住まいではなく、テントを張るような仮住まい。そのため人との距離もとても近かったのです。ですから私たちは当然、そのお方の輝く栄光を間近で見ることになるわけです。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と語られる通りです。

 

しかし、このひとり子キリストの栄光は、私たちが普通イメージする栄光とは、随分違っていたことが、ヨハネ福音書を読んでいくと分かります。普通私たちがイメージするのは、まばゆい王の宮殿の輝き、きらびやかな栄光なのではありませんか。しかし、このひとり子の栄光は、下にくだっていく栄光で、まずはヨセフという、大工の息子に生まれる所から始まりました。そして、その成長と共に、この方の栄光はいよいよ独特さを増していきます。このひとり子は、病の人を癒す魂の医者になるのです。そして誰もが敬遠するような人々に寄り添い、彼らを導いていくのです。例えば四章、ユダヤ人たちがさげすんだ、サマリヤの町を通った折りにキリストは、不幸な女性を訪ねます。何度も離婚を繰り返し、人生の破綻していたサマリヤの女にいのちの水を与え、まことの礼拝へと導いていったのでした。五章では三十八年も立ち上がれない、足の萎えた男をわざわざ訪ねては立ち上がらせ、九章では、生まれながら目の見えない男と出会い、神の栄光が現れるためにと、彼の眼を開けていくのです。そうした魂の医者の働きの中、このお方は、こう口にされました。「わたしは人からの栄誉、栄光は受けない」。このお方は、人からの栄誉。この世の誰もが輝かしいと思うような、そういう栄光はいらないと言った。そんな神のひとり子は、実は、自ら悲しみの人でもあり、自ら病を知っているお方でもあったのです。そして、罪を除いては「私たちと同じように試みにあわれ」たので、人の弱さにも同情することの出来るお方で、枕する所もなく、つらい人生の旅を地上で続けていかれたのです。

この、私たちが考える栄光とは程遠いお方が、十字架前夜に意味深なことを言います。17章1節「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」、そう言って、神のひとり子は翌日、当時もっとも恥ずべき、むごたらしい死刑であった十字架に、その命を捧げて、とことんまで下にくだっていったのでした。神のひとり子が人となり、私たちの間に住むとは、何と窮屈なことであったのでしょう。何と苦しく、孤独なことであったでしょう。しかし、そうした生き方をこのお方は栄光と呼ばれた。これは全く不思議なことだと思います。

実は、神が人となり、人と共に住むという主題は、ギリシャ神話にも出て来ます。ですから一見似ています。ああ、ギリシャ神話にもこういう、神が人になる話があったなと。でも中身をよく読むと全く違うのです。ギリシャ神話の場合は、神が人のフリをするだけのゲームで、遊び半分。嫌になるとすぐ人間を辞めて、神に戻ってしまうのです。

しかし、このひとり子は、人であることを辞めるどころか、窮屈さと苦しさの中、まことの人間の生き方を貫いていったのです。まことの人間の生き方とは何でしょう。それは神の律法、神の教えにピッタリ一致した生き方で、それを貫くため、最後は十字架に自分の命まで捧げ、それを栄光と自ら呼ばれたのです。それはへりくだった仕える栄光。人を救うため自らの命まで捧げていく栄光。それゆえ天の父は、三日目にひとり子を甦らせ、世界と教会を治める王座へと、やがてこの方を高く挙げていくことになります。下へ下へのへりくだったイエスは、やがて神によって高く挙げられ、私たちの王となっていくのです。

いずれにせよとことんへりくだり、神と人に仕え、命さえ捧げて仕え抜く。それを栄光と呼んだひとり子。そんなイエスさまを思う中、私はフト、宮沢賢治の雨ニモ負ケズを思い出しました。

 

(読みやすいよう、以下、平仮で記します。)

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかや訴訟があれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさの夏はオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

 

宮沢賢治は、法華経を日ごろから念じていた熱心な仏教徒です。そんな宮沢賢治の雨ニモ負ケズですが、実はこれにはモデルがいたと言われています。注目は最後の部分です。最後に「そういうものにわたしはなりたい」とありますので、これは賢治本人のことではありません。宮沢賢治をして、こういう人になりたいものだと思わせる、誰かモデルがいたらしいのです。その人を見ながら賢治は、この雨ニモ負ケズを残したのです。

宮沢賢治は、そのモデルが誰かを明かすことはなかったようです。しかし、その有力なモデルと言われる人がいます。斎藤宗次郎という人です。彼は内村鑑三の弟子で、宮沢賢治の故郷岩手県花巻で初めてキリスト信者になった人です。時は明治、まだまだキリスト教への風当たりの強い頃で、田舎でしたから、宗次郎は随分と酷い仕打ちを受けたそうです。小学校の教員でしたが、信仰のため職も失い、新聞配達をしながら苦しい生活を送りました。お嬢さんがいたそうですが、信仰のため、お嬢さんも学校でいじめられ、誰かにお腹を蹴られて内臓破裂、死んでしまったそうです。そんな迫害の中でも宗次郎は病人を見舞い、困難の中にある人を励まし、自らは慎ましく祈り深く、人々に仕えながら歩み続けたのでした。

宗次郎は後に、内村鑑三の働きを手伝うため岩手を離れて上京するのですが、出発の朝、誰も見送りには来ないだろうと思っていたのが、とんでもない。花巻の駅には、駅が溢れるほどの人々が集まり、宗次郎一家を見送ったという記録が残っています。

宮沢賢治は、この斎藤宗次郎を見ていて、「そういう人に私もなりたい」と思い、雨にもまけずを記したと、一説には言われています。

 

  1. ひとり子の神が、神を解き明かす

「そういうものにわたしはなりたい」。キリスト者の道は、身を低くして仕えた、そういうキリストに従い、そういうキリストにならって人に仕える道です。それはひとり子である神のことば、キリスト自身が、率先してそれを栄光とされたからでした。そしてそれは他でもない、神ご自身の栄光の現し方でもあったのです。

18節:「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」

このひとり子、神の「ことば」は、その存在をもって神ご自身を示し、神がどんなお方かを解き明かしているのです。私たちは自分の目で神を見たことはありませんが、生ける御言葉であるキリストを通し、またその御わざを通して、神ご自身を深く知ることができます。

 

結び

この方は、生ける神を解き明かしています。ですからこのお方を見つめるならば、このお方の言葉に聴くならば、私たちは神を深く知ることができるのです。まさにこのお方は生ける御言葉で、世の初めから「ことば」と呼ばれるのにふさわしいお方でした。

私たちもまた、この生ける御言葉を通して神を、いよいよ深く知りたいと願います。そして、このお方がそうだったように、互いに仕え合う生き方へと私たちも進み、それを自分の誉れ、喜び、また栄光としていきたいと願います。

 

お祈りします。

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」

天のお父様、ひとり子を窮屈な、まことに窮屈な地上に遣わし、私たちに本物の栄光をお示しくださった、その御業を覚えてあなたを礼拝します。どうかこの生ける御言葉に学びながら、私たちもまた、人としての本当の生き方を取り戻し、人に仕えては福音を宣べ伝え、互いに仕えあっては、聖い、まことの神の教会を御霊の助けによって、この地に築いていくことができますように。ことばなるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン!