「主イエスがともに」(ルカ福音書24:13-35)

「主イエスがともに」(ルカ福音書24:13-35)説教者:齋藤五十三師
※聖書引用はすべて新改訳2017から

13-14節 「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン(約11km)余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた」。

今朝の主な登場人物は二人の無名の弟子です。彼らが道々話し合っていたのは、その朝に起こった出来事についてでした。その日朝早く仲間の女性たちが、三日前に十字架で死んだ主イエスの体を見に墓に向かった所、その遺体が見当たらなかったというのです。「いったい全体何が」と途方に暮れていると、御使いたちが現れ、主の復活、よみがえりを告げたという話でした。

24章4-6節 「そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい』。」

これを直接聞いた女性たちは驚き、また喜んだのでしょうが、それを伝え聞かされた多くの弟子たちには、それがたわごと、作り話に思えたとあります。そしてエマオ途上にあるこの二人もまた、消化しきれずにいた。「ああでもない、こうでもない」と15節を原文で読むと、二人の話し合いは感情的な、結構激しい議論にまで発展していたようです。

私たちは思います。何と残念なことだろうと。イエスさまがその朝甦られたというのに、復活の喜びがまだ共有されていない。二人の弟子は今なお暗い面持ちで歩いていた。女性たちから聞いたことに戸惑いを感じながらも、二人は今なお、主を十字架に失った悲しみ、挫折の中にいました。まさに5節で御使いが言っているよう、この二人も生きている主を「死人の中に」捜し続けていたのです。

この朝は、そんな二人の弟子に近付き、語っていく。イエスさまの三つの姿に目を留めてゆきます。

1.近づく主イエス

まず第一は、近づいていくイエスさまです。復活の主はどこからともなく現れ、エマオを目指す弟子たちの傍らにスッと近付いていかれます。

15-17節「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった」。

ここを読み返す中、私の印象に深く残ったのは、復活の主イエスの自由さでした。主イエスは何ものにも縛られず、ご自分を必要とする弟子たちの近くにフッと現れ、近づいていくのです。たとえそれが、名もない無名の弟子たちであったとしてもです。

しかもエマオに至るまでの道のり(おそらく数時間でしょう)、イエスさまは、その間、最初はほとんど聞き手に徹し、傍らに寄り添い、ペースを合わせて話に耳を傾けていくのです。イエスさまは彼らの話に関心を寄せています。それは二人の弟子たちが、今なお暗く、落ち込んでいることを見て取ったからでしょう。確かに20-21節で彼らが口にしているように、十字架は大きなつまづきだったのです。「私たちは、この方こそ!」と望みをかけていたのに、イエスさまは十字架に死んでしまった。こんなつまづきの中に神が働いているはずはないと。二人はそんな様子で、今なお悲しみの中。主イエスは、そんな彼らの心の痛みに、スッと寄り添って共に歩いていくのです。それはまるで有名な「足あと」の詩のようです。砂浜に残ったフットプリンツのように、優しく弟子たちの人生に寄り添っていく復活のイエスさまでした。

しかし、だからこそ重ね重ね残念でした。この二人の弟子、共に歩くイエスさまに気づかないのです。そんな中でのやり取りは、まるでコメディーを見ているような滑稽さで、結構笑えます。例えば23節、彼らは女性たちから聞いた言葉を伝える形で、「『イエス様が生きておられると御使いは告げた』、そんな信じがたいことがあると思いますか、旅のお方」と、二人はこんな口調で、イエスさま本人に訴えていくのです。確かに、これは笑える場面。でも同時に「なぜ」と私たちは思うでしょう。なぜイエスさまと分からないのか。理由は16節「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった」。

「さえぎられている」、聖書のこうした独特の書き味は、外から何かしらの力が働いて、彼らの目を遮っていたことを意味していると言われます。「さえぎる」という言葉には普通は良くない意味、否定的なニュアンスがあります。でも私は、さえぎられて見えなかったことを、必ずしも否定的に捉える必要はないと思っています。たとえそれがイエスさまであると分からなくても、それは大きな問題ではなかったと。このことについては、後でもう一度触れます。

とにかくエマオの途上、二人の弟子は、今周囲で起こっていることを理解しようと必死だったのです。十字架のつまづき、そして朝、主の遺体がなくなっていたこと。「何が起こったのか」、それを何とか理解しよう、乗り越えようとして悩み、論じ合う弟子たち … 。そんな二人にイエスさまはどこからともなく近づき、耳を傾けながら寄り添っていく。

こういう復活の主の姿が寄り添う様子は、何ともいい場面だと私は思いました。こういう自由さを見ていると、思わず期待を抱いてしまうでしょう。イエスさまはきっと、私たちの人生の途上にも、こうして近づき、寄り添ってくださることがあるに違いないと。

そう。良い時はもちろん、私たちが下を向き、或いは抱えきれない問題に圧倒されてる時にも、主イエスは気づいて、スッと近づいてこられる。しかもこのお方、私たちの抱える問題に関心を寄せているのです。エマオ途上で弟子たちに「その話は何のことですか」と問いかけていったように、主イエスは寄り添いながら、私たちの問題に関心を寄せ、話を「聴く耳」となってくださる。主は私たちが人生の重荷を下ろして楽になるように、私たちの話に耳を傾けてくださる。でも私たちは多くの場合、気づかないでいるのです。目の前に、或いは傍らにおられる主イエスに気づかないでいることの何と多いことでしょう。

しかし、しかし、、たとえ気づかずとも、主は私たちに近付き、共に歩んでいる。まずはそんな、寄り添う主の足あとに目を向けていきたいと思うのです。

  1. 解き明かすキリスト

次に目を留めるのは、聖書を解き明かすイエスさまです。主はエマオ途上で弟子たちにとって「聴く耳」となられました。しかし主は、単なる聞き手では終わらないのです。イエスさまがギアを上げていく瞬間を25-26節が伝えていきます。

25-26節「そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』」

「ああ、愚かな者たち」これは、主イエスを死人の中に探し落胆している、そんな弟子たちに向けたイエスさまの叱責でした。「ああ愚か!」パウロなども、福音の自由を悟らぬガラテヤ教会を叱る時、これと同じ口調で語りますが、イエスさまもここでハッキリと真理を悟らぬ二人を嘆いて叱っているのです。福音書を読んでいても、しばしばイエスさまが弟子を叱る場面があります。でも不思議。世の中には、叱っても愛を伝えることの出来る人というのがいるもので(私もそういう教師を目指してますが)、イエスさまは、まさにそういう方でした。この方に叱られると、落ち込むのとは反対に、むしろ真剣な愛を感じて「もっと叱られたい」くらいに思うのだと思う。しかも、この方に叱られると、それまで気づかなかったことに、人は目を開かれていくのです。それはイエスさまが神の言葉を解き明かす、御言葉の教師であったからでした。

エマオ途上に寄り添い、弟子たちの話を聴いていくイエスさまを見ていると、この方は、本当に良いカウンセラーだったと思います。このお方は話を聴くだけでなく、人を御言葉に導いていくでしょう。この方、主イエスはそのように神の言葉こそが、人を牧会するのだと(牧会とは魂に対するケアですが)、主は、神の言葉にこそ牧会のいのちがあると知っていたのです。

27節「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた」。

聖書、御言葉の解き明かしの中、二人の弟子は忘れられない時を過ごします。そして御言葉を通し、いつしか彼らの問題も解決していく。二人は、それがイエスさまとは気づきませんでした。でも、それでも御言葉に耳を傾ける中、いつの間にか、心に抱えていた悲しみもつまづきも、すべてが溶かされていったことに後で気づくのでした。

この春、私は伝道者生涯27年目に入りました。横浜、新潟、台湾、奉仕の場所は変わりましたが、27年、私が目指し続けて来た礼拝、そして説教があります。それはキリストと出会う礼拝であり説教。主イエスの御声が聴こえてくる礼拝、そして説教です。私が語る時に聖霊が働き、そして私が語るのではなく、実は主ご自身が語ってくださる。兄弟姉妹が御言葉を通し、主イエスに出会い、その御声に聴く中で重荷を下ろし力を回復していく。牧師という「人」を超え、御言葉と聖霊によって、集う一人一人が牧会され、導かれ、教会が形成されていく。そのために説教者は命を削りながら聖書に向き合い、神の言葉を語る必要があります。

人間である牧師の牧会には、どうしても限界があります。私もいろいろ失敗を重ねる中で思い知らされてきました。ただ、神の言葉だけが悩める者を立ち上がらせていくのです。そうやって礼拝の中、ただキリストの言葉、神の言葉だけが聴かれていくようになるのです。私たちも最初は心にあるもの、人生の重荷、悩みを祈りを通じて口に出したらいいでしょう。主に聴いていただいたらいいでしょう。エマオ途上の弟子たちも最初はそうでした。しかし、やがて私たちは口を閉ざし、イエスさまに譲っていくのです。人の魂を養う力のある、神の言葉だけを響かせていくのです。そうやって、ただ御言葉が語られ、聴かれていく時に、人生の波は静まり、静かな喜びと力が湧いて来る。最後は、ただ神の言葉が聴かれなければなりません。エマオ途上のゴールがそうだったように、ただイエスさまの言葉だけを響かせていくのです。

3.見えなくなったイエスさま

最後は、弟子たちに現れ、そして見えなくなったイエスさまの姿です。

30-32節「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」

それは夕食の時でした。二人の弟子はある瞬間、旅の友が実はイエスさまご自身であったことに気づいたのです。それは一瞬のこと。イエスさまの姿はすぐに見えなくなってしまう。私たちは咄嗟に思います。「イエスさま、あなたはどこへ行ってしまわれたのですか」と。主は果たしてどこに行ってしまったのか。

しかし、「どこへ」と問うことは不要なことなのだろうと、読み返す中で気づきました。だって見てください。二人の弟子たちには、たとえイエスさまが見えなくなっても、がっかりした様子がないのです。悲しんでいる様子もない。それどころか喜び勇んでエルサレムへと戻り、起こったことを他の弟子たちに伝えていったのです。

私たちは31節を注意深く読む必要があります。そこには「その姿は見えなくなった」とあるだけで、イエスさまが離れたとも、いなくなったとも書かれていない。つまり「見えなくなった」だけなのです。聖書を通し、心燃やされた弟子たちは気づいた。たとえ見えなくともイエスさまは共にいる。たとえ気づかなくとも、主は共に歩んでいると。御言葉を通し心燃やされた余韻が、彼らにそのことを教えていたのだと信じます。

そう、見える見えないは大事なことではない。もし御言葉に聴き、御言葉の内を歩むならば、主イエスは私たちと共にいる。マタイ福音書28章終わりで約束されたように、主は確かに、世の終わりまで私たちと共にいるのです。もし私たちが御言葉を握って歩んでいるなら、主イエスは春風のように近づき、あなたの心に語りかけてくださる。主は、御言葉に耳を傾ける信仰者の、すぐ傍らにおられるお方です。

四月から東京基督教大学での働きが始まりました。慣れない環境の中、時に疲れを覚え、「今日、この一日を乗りきれるだろうか」とそんな思いで朝を迎える日もあります。でも不思議です。朝起きた後のひととき、聖書を開くと不思議なように、その日に必要な御言葉が備えられていることがある。そして心に語りかける主の励ましの声に力を得るのです。「大丈夫。今日も歩いていける」と。そういえば水曜の祈り会で、ある兄弟も証ししていました。朝の職場での御言葉のひとときに、息を吹き返すような力をいただいていると。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉による」。私たち神の子ども、主イエスのものとされた私たちは、神の言葉、主イエスの声を聴くと力を得、元気を回復していくのです。(どのように聴いたらいいのですか? という人は後で私に尋ねてください)。そのようにして、神の言葉に聴く時に、人は主イエスと出会う。そして重荷を下ろし心燃やされ、復活の新しい希望の中に生き始める。そのように御言葉に聴く人たちの集まりを、聖書は教会と呼ぶのです。お祈りします。