歓迎礼拝説教「十字架のキリストとの出会い」(使徒9:1~9)

「十字架のキリストとの出会い」~人生は出会いで決まる~

齋藤五十三師

使徒の働き9章1~9節

※聖書引用はすべて新改訳2017から

ある人が、人生を豊かにする三つの秘訣ということを言っています。一つは本を読むこと。二つ目は人の話をよく聴くこと。そしてもう一つが旅をすること。本日は初心者の方にもわかりやすい話を準備しましたが、どうか想像の翼を広げていただいて、皆さんと一緒に旅をしたいと思っています。聖書という書物を通じて旅をしたいと願っています。聖書は私たちの人生の旅を導くガイドブックです。そして今朝の旅のパートナーはパウロです。

 

  1. 狂気の裏に

パウロと旅をするこの朝、(この時は、まだサウロという名前でしたが)、特にサウロとイエス・キリストの出会いに目を留めたいと思っています。サウロは旅の途上でキリストに出会いました。人生という旅は出会いで決まるとよく言われます。旅の良しあしは、旅先でどんな人に出会うかで決まるもので、さらに一歩踏み込んで申し上げると、私たちの人生という旅は、実はイエス・キリストと出会うかどうかで決まるのです。イエスさまと出会わなければ、本物の人生を生きることは出来ないと聖書は教えます。それはサウロを見ているとよく分かります。一緒に聖書を読んでみましょう。

 

1~2節「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道(注:キリスト教)の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」。

 

このサウロ、読んですぐに印象的なのは、クリスチャン迫害のために鼻息を荒くしている姿です。エルサレムから逃げたクリスチャンたちを追い、大祭司の許可の手紙まで持って242キロの道のりをものともせずダマスコまで追いかけて来たのです。しかも心には殺意さえ抱いていたから恐ろしい。これほどの迫害への執着は異常です。こういう異常さを見ていると、サウロはきっと何か心に隠しているに違いない。何か心に隠し、人に見せないようにしているものがあるに違いないと思ってしまいます。

スイスの精神科医で、昔の人ですが今も影響力のあるユングという人がいます。そのユングが言うのです。人が異常なくらい何かに執着している時は、その人は心の中に忘れてしまいたい何かを隠しているものだと。その何かをかき消すために、必死であることに熱中しているのだと。サウロの心の中には、確かにあったのです。忘れてしまいたい、消し去りたい思い出が。

少し前の使徒の働き7章で、サウロが初めて聖書に登場する時、彼はまことに暗い仕方で出て来ます。それは伝道者ステパノを、ユダヤ人たちが怒ってリンチのような死刑にする場面。その場面に、青年だったサウロが出てくるのです。サウロは、ステパノを死刑にする人たちの服を預かって、じっと殺されるのを見ていました。そうやってステパノが殺されたすぐ後、8章からサウロは突然、何かに狂ったようにクリスチャンたちを迫害するようになるのです。

ここで聖書は何かを伝えたいのです。サウロの心に何かの変化があったのだと。ステパノの死んでゆく様子はサウロにショックを与えたのです。ステパノの顔はみ使いのように輝いてたそうですが、そのステパノが最後、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と口にし、そして自分を殺した人々の赦しを祈りながら、まるでイエスさまのように死んでいく様子は、サウロの心に衝撃を残しました。

サウロは彼自身の人生の終わりに、ステパノの死にざまを見た時のことを書き残しています。サウロはステパノの死に様を見て以来、実はイエスさまのことが気になって、それが生涯の記憶として残っていくのです。ステパノが命をかけて従ったイエスさまに何か惹かれるものがあったのです。ステパノは、自分の持っていない何かを持っていると。でも気にはなっても、そのイエスさまを受け入れることができない。サウロの心は石のように頑固です。だから、心の中では気になってるのに、それを打ち消そう、かき消そうと。それが9章の記す狂った迫害の正体です。

皆さん、キリストの事を聞いてはいるけれど、信じられない。気になるけれど従えない。そういう葛藤を抱えた人生が、どんなに苦しいか想像してください。それは本当に苦しいもの。

 

レオナルド・ダ・ビンチの残した最後の晩餐という有名な壁画があります。キリストを含めた十三人の一人一人にモデルがいたということをご存じでしょうか。ダ・ビンチは、最初にキリストのモデル探しから始めたのだそうです。簡単には見つからなかったと思いますが、ある日、教会の聖歌隊で歌っている青年を見て、その歌う時に天使のように澄んだ顔をするのを見て、これだ!と思ったのでしょう。最初に彼をモデルにして中央のキリストを描いたのです。

その後何年か費やし、一人一人モデルを探しながら描き上げていったのですが、最後のモデル探しが難航したそうです。それは裏切り者ユダのモデル。自分の先生さえも裏切ることのできる、心の闇を抱えた男のイメージでしょうが、これがなかなか見つからなかったそうです。そんなある日、町角で乞食をしている男性を見つけます。その顔つきはまことに醜い、お金のこと、自分のことしか考えていない顔つきに見えて、ダ・ビンチは彼を連れて帰り、ユダを描き終えることができたのです。描き終えて、お礼のモデル料を渡すと、その乞食はこう言ったそうです。「先生、私のことを覚えていますか。私は昔、キリストのモデルをしたのです」。

この男性の人生にいったい何があったのか。分かりませんけれども、かつて天使のように見えた彼の顔が、まったく醜く変わっていたのは、罪の生活の恐ろしさです。キリストに従い続けることができず、自己中心に生きた、その生きざまが彼の顔を変えてしまったというエピソードです。この話は、多分に伝説めいていますが、最近、壁画の修復が完成して、実はキリストの顔は未完だったのではないかと、一説には言われているそうです。人間をモデルにキリストを描くには限界があったということなのでしょう。

私は大学の教員ですので、仕事柄、若い人と話をすることが多くあります。「若さってすばらしい」と思います。今の若い人は、おしゃれで服を合わせるのも上手。でも若さには落とし穴があるとも感じています。見た目がすべてだと思ってしまいやすいのです。心の美しさ、内面の大切さに気付きにくい。一般論ですが、そうした内面の美しさに気を配ることなく歳を重ねていくと、いつしか内面が外に出てきます。聖歌隊で歌う青年が、醜く変わっていったようにです。

 

サウロはなぜステパノの死にざまに惹かれたのでしょう。私は顔つきだと思っているのです。ステパノには、イエスさまのような輝きがありました。聖書を読むと彼は輝いています。心の中から滲んで来る輝き。サウロにとっては、それが眩しかったのです。

サウロは、ステパノの輝く死にざま、イエスさまのような死にざまに衝撃を受け、彼の信じるキリストに密かに心ひかれたのです。しかし心ひかれても、キリストに近付こうとしない。サウロの頑固さは、並大抵のものではありませんでした。この暴れ牛のような狂気を誰も止められなかったのです。誰も、、。ただ、一人あのお方を除いては!

これが、このダマスコ途上、サウロとイエスさまの出会いの背景です。私たちにすれば、この出会いは偶然に思えます。しかし主イエスは、待っていたのです。ステパノが死んで以来、サウロをずっと気にかけ、機会を待っておられたと私は信じます。

 

ここで皆さんも自分の人生を考えてみてください。サウロと一緒に旅をして、自分の人生を考えるのです。あなたは、どんな人生を生きて来ましたか。或いはどんな人生を全うしたいですか。どうせ生きるなら、輝いて生きたいではありませんか。

考えて頂きたいのです。自分はキリストと出会ったことがあるだろうかと。もちろん、すでに洗礼を受けておられる皆さんは、それぞれに出会った方々であろうと思います。でも洗礼を受けて、自分はクリスチャンだという方も考えていただきたい。自分は日々キリストと出会っているだろうかと。キリストを仰ぎ見て、その輝きが自分の顔にも映し出されているだろうかと。正直言えば、私自身はキリストを見失うことがあります。私は弱い人間で、迷いやすい者なのです。だから私たちは誰もが日々、キリストと出会う必要があるのです。聖書を通じ、今朝サウロと旅を始めたあなたを、イエスさまは待っておられるかもしれません。人生という名前のダマスコ途上で皆さんを待っておられるかもしれません。

 

  1. 復活・十字架のキリスト

ダマスコ途上でサウロを待ち構えていたのは十字架のキリストでした。「十字架のキリスト」と聞いて、変だなと思われた方もおられると思います。使徒の働きは、主イエスの復活後の出来事を記した書物。十字架は、もう昔のことであるはずです。これには理由があります。4節です。

 

4-5節「彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』。彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」

 

イエスさまはサウロに、「なぜわたしを迫害するのか」と言っています。これってどういうことでしょう。「なぜクリスチャンたちを迫害するのか」でなく、主イエスは「サウロは、実はわたしを迫害しているのだ」と言った。これを聞いたサウロも、チンプンカンプンだったでしょう。「私が迫害しているのは、クリスチャンたちだったはず」と。これはどういうことか。考えて欲しいのです。

答えを言います。これが十字架なのです。イエスさまはよみがえった後もなお、迫害に苦しむ人々の痛みを、その身に引き受けているのです。信仰のために苦しみ、痛めつけられている人がいたら、その人たちと一緒にイエスさまも苦しんでいるのです。もし、皆さんが信仰のために苦しんだり、辛い思いをすることがあったら、イエスさまもあなたと一緒に苦しんでいます。それが十字架のイエスさま。

それだけではありません。皆さんを苦しめる人たちの罪を、主イエスは解決しようともしています。特にここでは、サウロの罪を自分で取り扱おうとしています。まるで復活の主が天から降りて来て、サウロのため、再び十字架にかかろうとしているような、そんなイエスさまの思い。何とかしてサウロを救いたい。キリストに従えずに苦しんでいるサウロを助けたい。このキリストの十字架の愛に、サウロはダマスコ途上で打ちのめされていくのです。皆さんは、この十字架のキリストに出会いましたか。

 

  1. 個人的な出会い

私は先ほど、サウロが十字架の愛に打ちのめされたと言いましたが、それは少し不正確でした。イエスさまは、サウロを力で圧倒し、暴力的に倒したわけではありません。イエスさまは、サウロと対話しています。「なぜわたしを迫害するのか」と尋ね、「あなたはどなたですか」と返すサウロには、「わたしはイエス」と、個人的に御言葉で主はサウロの心に語っているのです。イエスさまはこのように、人を救う時に個人的に、心に御言葉で語るのです。

9章を読んでいると、サウロの出会いはドラマチックで、私たちの経験とは全然違うものと思われるかもしれません。でも、私たちの経験と共通する部分も実はあるのです。それはイエスさまが力ではなく御言葉を通し、個人的に語っておられること。キリストは、人を変える時には、その人を全部否定して、破壊することはしないのです。そうでなく神の言葉をもって語り、個人的に出会って愛で人を変えていくのです。

皆さんは、イエスさまの心に語り掛けて来る声を聴いているでしょうか。語りかける声が聞こえてくるでしょうか。このことを今、この礼拝の場所で静かに考えて欲しいと思います。イエスさまは、皆さんに本物の人生を生きて欲しいと願って、いつも心に語り掛けているのです。あなたの心に語る声があるのです。内なる細い声があるのです。その声に心を開いて欲しいのです。「わたしに従いなさい」との、イエスさまの声に従って欲しいと願います。

 

お祈りします。

天のお父様、御言葉と御霊により主イエスは今日も語っておられます。世の雑踏にかき消されてしまうことなく、その御声を聴き取り、キリストの恵みと輝きに満たされて、この福音を携えてゆく私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。