「はじめに神が」(創世記1:1~5)
「はじめに神が」(創世記 1:1~5)
かのマルティン・ルターは、聖書全体を理解するためには三つの教えを学ぶ必要があると言いました。それは使徒信条、十戒、主の祈りの三つです。私もその通りだと日頃より思い、教会の中でも繰り返しこれらを学ぶ必要があると感じています。今日は使徒信条、「我は天地の造り主を信ず」という冒頭の部分です。
1.天地のデザイナー・メーカーの存在
1節 「はじめに神が天と地を創造された。」
これは歴史の始め、時を刻み始めた、その時、ということです。その時すでに神がおられ、しかもまず天地を創造した。それで歴史は動き始めたのだと、聖書はその初めに高らかに宣言していきます。
人によっては、こうした始まり方を不親切と感じる方もあるかもしれません。なぜなら、歴史の始まる前にすでに神がおられたことを当然のこととして始めているからです。神がいることの説明もなければ、断りもない。神がいるのは当然!説明も必要なしと言わんばかりです。
こういう始まり方は不親切でしょうか。私もこの度、よく考えました。その上での私の結論は、やはりこれでいいのだと。少なくとも聖書では、神がいることを説明する必要もないし、論じる必要もない。
例えば、ここに花が活けてあります。美しい花です。ということは、これを活けた人がいる。当然です。偶然ここにあるわけじゃありません。さて朝の礼拝が終われば、多くの教会ではお昼ごはんです。お昼が出て来るということは、献立を立て、作った方々がおられるということです。偶然に、何の労苦もなしに出て来るわけではない。その他にも、いろんなものがそうです。会堂の入り口には、時計が掛かっていて時を刻んでいる。時計があるということは、それをデザインした人がいて、作ったメーカーがあるということ。それも当たり前の話。
じゃあ、もっと広く世界を見渡しましょう。でも道理は同じ。ここに世界があります。私たちの暮らす地球。それは会堂にかかっている時計よりもはるかに精巧で、一年に一回、太陽の周りを一周し、自分でも365回の自転をしています。それほど正確な地球、世界ですから、その背後にデザイナー、そしてメーカーがいるのは当然ではありませんか。また世界の中には、繊細で美しいいのちが生きています。花を見ていると思います。いのちは美しく繊細だと。そんないのちの背後にもデザイナーがいる。造った神がおられる。考えてみれば、これは当然のことではありませんか。
そのようにこの世界、そして存在する生きとし生ける物すべてにデザイナー、造り主の神がいます。それは、あらゆるものの存在が決して偶然ではないこと。むしろ月や星、草花や動物、私たち人間の存在には目的がある。意味があることを教えてくれます。私たち一人一人の存在の、その掛け替えのなさの理由もそこです。あなたの存在には明確な意味がある。皆さん一人一人が掛け替えのない存在で、この世界のどこを探してもあなたのスペアはいないのです。
「はじめに神が天と地を創造された」。神はこのようにしてこの世界、そして、その中に生きるいのちを生み出していくわけですが、ここで要注意です。普通、人が何かを作る時は、材料が必要です。しかし、どういうわけか聖書は、神が「これこれの材料」を用いて天地を造ったとは一切言わないのです。どうもこのお方、材料なしで世界を創造されたようです。「どうしてそんなことが?」と私たちは驚くし、戸惑いますが、これこそが神が神である理由です。神は、人ではなく「神」だから、材料もない所、何もない所から天地を造ることができる。これが神の全能の力です。神には不可能ということがないのです。そんな全能の神だから、この方は、私たちの人生のあらゆる問題を取り扱うことができるのです。このお方は全能だから、私たちは、重い人生の課題を、このお方の下に持っていくことができるのです。神が全能である。これは何と慰め深いことでしょう。
- いのちを迎える舞台
2節 「地は茫漠(意味:空っぽ)として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」
2節は神が、いのちを入れる器、入れ物である天地を造った直後の様子です。「地は茫漠として何もなく」。例えるなら、立派に完成したけれど、背景も大道具も一切ない舞台。そこで歌い踊り演じる、役者さんのいない空っぽの舞台と同じです。茫漠とは、舞台は出来ても、中はまだ空っぽだったということ。造られた当初、天地は空っぽでした。「何のために造ったのだ」と皆さんは思われるでしょうか。目的は明らかです。そこに大道具や背景を置き、役者さんたちを立てて、胸を打つ舞台を演じさせるためではなかったですか。或いは様々な音楽家を迎え、季節の音楽を奏でるためではなかったですか。
宗教改革者カルヴァンという人は、この世界は神の劇場だと言いました。劇場であるからには、目指すゴールは、そこに命ある役者、音楽家たちを迎え、美しいものを演じさせていくことです。
確かに、この世界の創造の過程を見ていくと、命を迎えるため、少しずつ舞台を整えていくのが分かります。三日目に植物、四日目に太陽と月、五日目には海の生き物や鳥、六日目に獣、そして人間。そうやって世界は徐々に整っていく。創造の七日間とは、そうやって、そこに少しずつ命を迎えていく七日間です。ですから、その天地創造には最初の一日目から、いのちを迎える期待感があふれているのです。確かに、命を迎えるというのは、何かワクワクするような期待を持たせるものです。以前、上野動物園にパンダが生まれると聞けば、普段動物に関心のない私でも、知らず知らず「無事に生まれてくれよ」と願ってしまいました。命を迎えるというのは、そういう期待感を伴うものです。以前、私の奉仕する教会では、講壇脇に赤いバラが飾られました。奉仕している兄弟が礼拝前日の土曜に、庭に咲いたバラの写真を送ってくださり、明日、これを持ってきてくださるという。「ああ、明日の礼拝では、このバラを見られるのだ」と、そう思うと胸に期待を抱くというか。命を迎えるというのは、そういう期待感を伴うもので、この2節はそんな期待感を、実は読む私たちに抱かせようとしているのです。
そういうことを思う時、2節後半「神の霊がその水の面を動いていた」というのは意味のあることだと思いました。造られた天地が、これからそこに命を迎えていく。その直前に神の霊、聖霊がこの世界を覆って動き始めていた。この世界は、いのちを迎える前から、すでに慰めの聖霊の配慮の中にあったのです。そうした配慮の対象には、当然、私たちのいのち、あなたの命も含まれていました。こうした神の配慮の中で、いのちはこの世界に生まれてきたのです。
そうした配慮に富む神を知ると、私たちはハレルヤ!と歌いたくなるではありませんか。確かに天地の造り主は、賛美、礼拝を受けるに相応しいお方です。
昔、電球の発明等で知られる発明王エジソンがこんな事を言ったそうです。「私は技術者を尊敬する。中でも最も尊敬するのは、この世界を造った技術者である」。これが彼の信仰でした。そう、ほめたたえずにいられないのです。この全能の技術者、神は、ただ世界を造っただけではないのですから。設計図を引いたはじめから聖霊を通し、いのちを迎えるための配慮をしていた。私たちは、神のそんな配慮の中で、一人一人がこの世に生を受け、生まれて来たのです。
- 光よあれ!
最後に3節
天地という舞台が整いました。後は命を迎えるため、具体的な準備が始まっていきます。その準備は、第一声「光、あれ」という御言葉で始まっていきます。ナルホド!私は思いました。神は「光、あれ」と御言葉で世界をいのちで満たしていく。だから、神の言葉には人を生かす力があるのだなと。しかも「光、あれ」と神が語ると本当にそうなっていく。これもナルホド!だから神の言葉は確かで、信じるに値するのだなと。
皆さん、私たちがこのように毎週、この力ある御言葉に聴いているというのは、小さなことではないのです。このようにして、神の言葉を聴く中で毎週、いのちが新たにされているのです。ですから御言葉に聴く営みを毎週続けていきたいと思います。御言葉はあなたを生かす力です。またもし、周りに人生の試みに打ちひしがれている人がいれば、このいのちの御言葉を分かち合って欲しいと思います。御言葉は確かに、いのちを生かす神の力です。
でも、ここで疑問が一つ。「光、あれ」と言って現れたこの光、これはいったい何の光ですか? 私たちが光と聞いてまず思うのは太陽ですが、太陽は四日目に造られている。だから、ここで「光、あれ」と神が命じた光とは何だろうと、私はビッグクエスチョンを皆さんに問います。この光って何でしょう。私たちは、この世界で最も力ある光は太陽だと無意識に思っていますよね。でも違う。太陽より前に存在した、もっと根本的な光があるんだという。
確かに聖書を読んでいると気づくのです。この世界には太陽によらない、強く確かな光がある。思い出すのはクリスマスに読まれるヨハネ1章5節:「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。また世の終わり、完成した神の国を描く黙示録22章はこんなことを言います。「神である主が彼ら(神の子どもたち)を照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない」。神から発せられる光のおかげで、世の終わりには太陽も必要なくなるという。
とにかく「光、あれ」という、この光、いったい何の光でしょう。聖書は他の聖書個所によって読み解かれるもので、新約の第二コリント4章6節にヒントがありました。
「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです」。
「光、あれ」、闇の中から光が輝き出よと光を造られた神。その光とは心を照らす光で、この不思議な光に照らされると人は神を知ることができる。どんなに大きく強い太陽の光も、人の心を照らすことはできません。しかし神が創造の一日目に造った不思議な光は、人の心を照らし、神を知らせていく。
神はそれほど、人の心を照らすことを大切にしているのです。人が創造される前から、すでに心を照らす不思議な光を造り、いのちを迎える準備をした。皆さんの中にも経験がある人がいるでしょう。人生に悩み、心折れそうな時、あるいは折れてしまった時に、どうしてかは分からないし説明もできないけれど、御言葉、祈り、あるいは人を通し、心照らされ、励まされた経験。神は人の心を照らす不思議な光をまず備えた。世に生を受ける一人一人が希望をもって生きることができるように。神はあなたの人生に関心をもっています。あなたが、心に光を灯して歩めるようにと願っておられるのです。
結び
神が、このように「闇」の覆っていた世界にまず「光」をもたらした。闇から光、こうした神の時の刻み方に、私は慰められました。闇の中に「光、あれ」。この順序が一つの大事なリズムになって、この世界の歴史は動いているのです。
その証拠に、創世記1章の時の刻み方、今の世の中と違いますよね。5節「夕があり、朝があった。第一日」。皆さん、今の世の中の時の刻み方は、朝から夕に向かうはずです。朝があり、夕になって一日が終わる。しかし神の時の刻み方は、夕があり朝。闇から光へと向かうのです。
ユダヤ人という人たちは、この時の流れを大事にし、日没をもって一日の始まりと考えました。イエスさまの時代もそうです。一日は日没で暗く始まり、夜を経て、明るい光に向かっていく。これは朝で始まりやがて暗くなる、この世の時と正反対です。「夕があり、朝」、闇から光へと向かうのが、本来の神の世界、神の時。それは私たちの心にも語り掛けて来ます。たとえ今は暗くとも、前には光がある。あなたの人生には希望がある。「夕があり、朝」神と共に生きる人生、御言葉を握って生きる生き方は、まさにそうなのです。人生は暮れていくのではない。「光、あれ」前途には光がある。希望がある。それが、神の言葉を握る私たちの人生であると心に刻みながら、この一週へと踏み出していきましょう。
お祈りします。
「光、あれ」夕があり、朝があった。御言葉をもって世界を造られた天のお父様。感謝します。御言葉をにぎる私たちの心を、この一週間も豊かに照らしてください。私たちの前には揺るがぬ希望があることを、いつも思い起こし、この生ける光によって私たちもまた輝き、遣わされた場所において、人々の励まし、希望となることができますように。まことの光、いける御言葉、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!