「天の父を知る」(マタイ6:25~27)

「天の父を知る」(マタイ 6:25~27)

齋藤五十三協力教師

はじめに

25節初めに「ですから」とあることからも分かるように、今日の箇所はすぐ前の24節と強い結びつきがあります。24節もイエスさまが山の上で語った、いわゆる山上の説教の一部ですが、そこには少しショックなメッセージがありました。

4節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」

信仰者は神と富という、二人の主人に仕えることはできない。両方を同時に求めることはできない。信仰者といえど人は結局、神か富のどちらか一つに頼っているのだと主イエスは言われます。

ここにおられるのは日曜に教会に通って来る皆さんですので、皆さんの中におそらく、自分は自覚的に「富」お金のみに頼ってるという人はいないと思います。しかしここで主イエスは、私たちが深く自分を省みることを求めています。果たして自分はどちらを頼りにしているだろう。神か富か、神への信仰か、それとも見えるお金に頼っているのか。そういう隠れた心の中を、リトマス紙のように明らかにしてくれるのが、今朝の25節です。私たちの心が、生活の心配や思い煩いに支配されていることはないだろうか。もし支配されていたら、私たちは知らず知らずに富、経済のこと、お金を自分の神にしているのかもしれません。

 

  1. 心配が明らかにしていること

25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」

今の時代、多くの人が、少しでも体に良いものを食べ、飲もうと心がけています。NHKのためしてガッテンで、納豆特集をすると翌日にはスーパーで売り切れる。きな粉が体に良いとガッテンが言えば、ガッテン、ガッテンと人々の反応よろしく、飛ぶようにきな粉が売れる。

体に良いものを食べ、飲みたい。それは悪いことではありません。もちろんイエスさまもここで、体や健康のための心配りを否定しているわけではないのです。主イエスがここで戒めているのは、行き過ぎた心配や思い煩いのことです。食べ物や着る物に支配され、それが生きる上で第一のことになっているとしたら、それは問題だと。

これは何も食べ物や着る物だけのことではないのです。食べ、飲む、着るは、言い換えればお金や経済を含めた生活のすべてを代表していて、つまり生活のことで心配しすぎて、それらに支配されないようにとイエスさまは言うのです。生活のことで過度に心配しないようにと。なぜなら、心配が過ぎると本末転倒が起こります。人生で本当に大切なものが脇に追いやられ、ピントがズレていくのです。心配に支配される余り、神への信頼すら掻き消されてしまうというようなことまで起こります。まるで人生は生活、経済、お金が全てであるかのように。しかも、その生活のことが、すべてこれ、自分の両肩だけにかかっているかのように、ともすると思い込んでしまうのです。

主イエスのメッセージによれば、生活の事で心配しすぎる人は、結局は自分を信じて生きている人だというのです。すべて自分にかかっている、自分がやらなきゃ、自分で守らなければと、ただ自分を信じて生きている。それは神に信頼し、すべてを神の御手に委ねる自由や平安とは真逆、正反対の生き方に他なりません。

「過度に心配する人は、結局自分を信じている」と、そう聞いて、中には反論したい方もおられるでしょう。「先生、そんなに責めないでください。世の人みんな、心配しながら生きているじゃありませんか」と。その通りです。信仰者であるかどうかを問わず、世の大半の人は心配しながら生きています。でも、だからこそ声を大きくして言う必要があるのです。心配には百害あって一利なし。心配して、良いことは一つもありません。

聖書がここでいう「心配」とは、元々は「心が二つに引き裂かれる」という意味ですが、「ああでもない、こうでもない」と心引き裂かれるように心配しながら、その心配によって問題を解決したという人は、実は一人もいないのです。皆さんだって、悩んでる人から相談を受けた時、「心配しなさい」「心配することが大事よ」と、解決策として心配を勧める人はいないと思います。

そもそも、いくら心配しても人は無力です。27節「だれが心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」、こうイエスさまが言われるように、いのちのことは、人の手の中、人がコントロールできる範囲にないのです。「長生きの秘訣は」と聞かれ「心配すること!」と答える長寿のお年寄りはいません。心配で寿命を延ばし、心配で人生を豊かにする人もいないのです。何かにとらわれ、片時も忘れられず心配しているとしたら、私たちは、実は無駄なエネルギーを使っているのだと、私たちはこのことを胸に刻み込みたいと思います。

音楽家に坂本龍一さんという方がいます。あの方は40代くらいから自称「健康オタク」になって、生活のことに本当に気を使って来たそうです。その坂本さんが喉に違和感を覚え、中咽頭がんと診断されたのが五年前62歳の時。自分がガンになるとは一万分の一もないと思ってた坂本さんは、人生で自分をコントロールできることはごくわずかだと思い知ったと、朝日新聞のインタビューで答えていて、お読みになった方もあると思います。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」。神の子どもとしての生き方を教える山上の説教には、実は心配という言葉が六回も出てきてキーワードになっているのですが、イエスさまは声を大にして言われます。心配には何の意味もない。それは神の子どもたち本来の生き方とは相いれないものなのだと。

 

  1. 空の鳥を!天の父を!

それでは、神の子どもである私たちはどうしたらいいのでしょう。無駄で、徒労でしかない心配をやめ、平安に生きるためにはどうしたらいいでしょう。「空の鳥を見なさい」とイエスさまは言うのです。スッと目線を変え、上を見なさいと。この辺り、主イエスは人を教える達人というか、人間と言う生き物をよく知っています。自分の生活、健康、経済、、そういった自分のことだけに囚われると、人は近視眼的になり、見るべきものが見えなくなっていきます。だから目線を変えなさい。上を、空の鳥を見てごらん!と、主は私たちを励ますのです。

「たったそれだけで何が変わるのですか」と、私たちは思うかもしれません。でも、確かに変わるのです。上を見ると何かが変わる。上には天の父がおられます。だから目線を変えるだけで必ず、何かが変わっていくのです。

26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」

空の鳥、そして、この後には野の花が出てきますが、そうした鳥や花の方が、実は私たちよりずっと賢く生きているのかもしれません。

「空の鳥は種まきもしない」。これは例えですので勘違いしないでください。鳥とて、遊んで暮らしているわけではないのです。鳥もヒナを養うのに、私たち同様、懸命に働いています。でも違いがあるのです。鳥は心配しません。忙しく働きながらも自由に空を飛び、歌うようにさえずっています。鳥は自由です。なぜ鳥はそのようなのでしょう。それは「天の父が養っているからだ」と主イエスは言います。鳥は見えない天の父に支えられているのです。しかもその天の父は(ここ、注意してください)「あなたがたの天の父」、つまり私たちの父だと。このお方は、空の鳥たちの父なる神ではなく、私たちの父なのだとあります。私たちの父は、本当に面倒見の良い方で、鳥の面倒まで見ているのです。それならなおのこと、子どもである「あなたがた」のことを大切にしないはずがないでしょう。それなのに何を心配しているのですか。上をご覧!と、主は優しく語り掛けて来るのです。

神が他でもない「私たちの」父であると気づく。「私たちの父」が、子どもである私たちをケアして、養っていることに気づく。これこそは山上の説教の中心テーマの一つです。この後の32節にはこうあります。「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」。父は私たちの必要をすべて知っている。私たち以上に、私たちに何が必要かを知っている。だから上を見上げ、天のお父様に気づく時に、私たちはすべての重荷を下ろしていくのです。

創世記3章、いにしえの時代、最初の人アダムとエバが、このお父様に背を向け、エデンの楽園を後にしました。それ以来、人の人生は大きく変わってしまったのです。お父様に背を向けた時から、人は命のこと、生活のことで心配する生き物になってしまいます。それは悲惨なほどで、人は、思い煩いに支配されるようになってしまうのです。

主イエスが地上に来られたのは、そんな心配から私たちを解放するためでした。そのため主は自分の命さえ犠牲にし、罪を解決し、主イエスを信じる者は、神の子どもとなる道を用意してくださいました。だからイエスさまは弟子たちに、神をお父様、天の父と呼んで祈るよう教えたのです。それが福音です。聖書の教える福音とは、神が父であることを知る福音です。

聖書をご覧ください。旧約がこんなに分厚く新約は薄いのですが、この分厚い旧約の時代、神を父と呼んで祈る人は殆どありませんでした。新約の時代、イエスさまのおかげで信仰者は、神を父と呼ぶようになったのです。新約の福音とは、神を父と知る福音です。

神が父であると気づく人は、お父様の守り、養いに気づき、アダム以来失われていた平安、自由を取り戻していくのです。27節が教えるように、私たちは自分で自分の命を支えているわけではありません。天の父「あなたがたの父」「私たちの父」があなたを養い、支えているのです。だから、神が自分の父であることに気づく人は、自分で人生を背負うのをやめることができるのです。生活の思い煩いから解放され、神の子本来の平安、自由を取り戻すのです。これが福音。これこそがイエス・キリストの福音です。

 

  1. 価値ある者

でも、なぜ天の父は、そこまで私たちに良くしてくださるのでしょう。私たちの目から見れば、欠けの多い、足らない所ばかりの私たち。それなのに、どうして父は良くしてくださるのでしょう。

答は明快です。「あなたがたはその空の鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」。あなたには価値があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聖書にあるように、たとえ人がどう言おうとも、天の父はあなたを大事に思っています。だって当たり前ではないですか。イエスさまのおかげで、私たちは神の子どもになったのです。子どもであるという、この当たり前のことが見えなくなっている。そこに心配の恐ろしさがあります。心配は信仰の目を塞ぎ、父なる神を見えなくするのです。恐れと不安の中に人を閉じ込め、神の前に、自分が価値ある者だということすら忘れさせていく。

私たちは、本当に自分の価値を知っているのでしょうか。神がお父様と気づいて見上げる時、人は初めて自分の価値が分かるのです。自分は生きるに値する者だ。大切な存在だと気づくのです。世の中でもそうでしょう。当然、親は知っています。自分の子どもがどんなに大切な存在か。しかし子どもは気づかないでいることが多い。親との関係が回復する時、人は自分の本当の価値を知るようになります。天のお父様との関係が回復するその時、人は、自分の人生には意味があると知る。そして人生の困難や試練を乗り越えていくのです。

 

結び

人は、天におられるお父様を見上げる時、自分の人生に意味があると知り、平安と自由を取り戻します。それが、イエスさまを通し神が父であることを知るということです。そしてそのお父様に私たちは祈るのです。個人でも教会でも、礼拝・祈祷会で、日々の生活の中でこのお父様に祈る。「天のお父様」と、ただ静かに呼びかける。その中で人は重荷を下ろし、思い煩いからも解かれていくのです。

本日のカテキズムを一緒に読みましょう。

問21 なぜ、神さまを「父」と呼ぶのですか。

答 全能の神さまは、イエス・キリストの父です。そして、イエスさまがわたしたちを、ご自分の兄弟姉妹として迎え入れて、神さまの子どもとしてくださったからです。

(全国連合長老会日曜学校委員会編『子どもと共に学ぶ―新・明解カテキズム』教文館、47頁)

お祈りします。

「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」

私たちを養っておられる天のお父様、感謝します。頑なな思いから解かれ、天を見上げ、あなたの大きな養いと配慮の中にいる、神の子どもである自分をいつも覚えることができますように。神の子どもたちの集いである神の家族、教会の中で、キリストの言葉と御霊に養われながら、私たちのお兄さん、キリストに似た者へと成長させてください。そして「天の父を知る」慰めの福音を宣べ伝えていくものとしてください。生ける御言葉、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!