「語る聖霊」(使徒13:1-3)
「語る聖霊」(使徒13:1-3)
齋藤五十三師
本日は、聖霊がくだったことを記念するペンテコステです。今朝は、このお方聖霊が教会とどのように関わっておられるのか、使徒の働き13章から3つのことを学びたいと思います。
1.多様な人々を一つに
1節 「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。」
これらの名前を一読して思うのは、人々の多様性です。ここに名前が挙げられているのは、アンティオキア教会の教師やリーダーたちですが、それだけでこの多様さですから、集まるメンバーは、いったいどれだけ多様だったのだろうかと思わされます。
このアンティオキアという町、交通の要所でいろんな文化や言葉の行き交う場所でした。まずトップに名前が出てくるバルナバ、彼はキプロス生まれのユダヤ人。今日風に言えば帰国子女です。それから二番目はニゲルと呼ばれるシメオン。ニゲルはニックネームで肌の黒さを意味しますので、彼はアフリカ系の黒人だったろうと言われます。またクレネ人ルキオ。彼も外国育ち。続くマナエンは何と領主ヘロデと共に育った、おそらく上流家庭の出身だったでしょう。その彼が信仰を持つようになったのです。そしてローマ市民権を持つサウロ、後のパウロです。
こうした名前を見ていくと、よくまあ、これだけのいろんな人が集まり、しかも11章を読むと言葉も多様だったようですから、こうした人々がどうやって一つ教会を形成していたのだろうかと驚き、また同時に興味を抱きます。
文化や言葉を超えて、いろんな人々が一つの教会を形作っていくということ。キリスト者の国籍は天にあるのだから当たり前だという見方もあるでしょうが、私は当たり前ではないと思います。文化や言葉、背景の違う人々が一つ教会になるのは、実は難しい。そうした現実を私はアメリカ、台湾、オランダ等で経験して来ました。
これまで、いろんな言語の礼拝に参加しました。新鮮でしたが、正直疲れました。言葉や文化の違う人々の礼拝に出るのは、疲れるのです。まず礼拝に出ても、100パーセント聴き取れることはまずないのです。私たちも台湾での最初の数年は、一緒に歌えないし祈れませんでした。正直言うと礼拝が苦痛でした。しかも考え方の違いがあるので、時々驚くようなことが起こるのです。そして悲しいことですが、日本人が、必ずしも歓迎されるわけではないのです。いつも目に見えない壁があって、特に白人社会に行くと、アジア蔑視の現実がありました。たとえキリスト教会であっても、地上にある限り、そこには欠けや未成熟な所が確かにあるのです。完全な教会を求めるなら、神の国の完成を待たなければなりません。
そんなことを思う時にアンティオキア教会は驚きです。どのようにして? と思いますが、ヒントは2節でしょう。聖霊の語りかけです。聖霊が共におられ、教会はいつも聖霊の導きに敏感でした。彼らの結び目は聖霊であったのです。第一コリント12章13節「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました」との御言葉が思い起こされます。
アンティオキアほどでないにしても、谷原キリスト教会も多様な背景を持つ人々の集まりです。年齢も育ちも、それぞれに違います。加えて、今後の日本ではますます外国人労働者が増え、教会も外国人を迎える準備をせよと、キリスト教界の指導者たちが声を上げています。例を挙げれば、今すでに日本に滞在する中国人は把握できる数だけで73万人を超えていて、練馬区の人口とほぼ同じです。今後日本はいよいよ、多様な人々の暮らす国になるでしょう。大変さはあるでしょうが、いろんな人々に教会に加わって欲しいと、私は心から願い祈っています。福音は世界に向け、分け隔てなく語られています。だから、いろんな方が礼拝者として集まり、心を一つにして共に祈る、そんな神の国の前味のような教会になれたらと願うのです。御霊は多様な人々を結び、一つの教会としていくのです。
2.語る聖霊
第二に、聖霊は語っています。私たち一人一人に、そして教会に語っています。このことを心に留めたいと思います。
2節 「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が『さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい』と言われた。」
彼らが聖霊の声を聞いたのは、礼拝と祈りの中でした。断食というのは、祈りに集中するためのもので、そのように礼拝と祈りの中、彼らは聖霊の語りかけを聴くのです。
私は常々、世の中には二つの生き方しかないと思っています。一つは自分を含めた人の声に従う生き方。もう一つは聖霊を通して聴く神の言葉に聴き従う生き方。どちらの声に聴き従うことが、より賢いかは明らかです。それでも現実として、私たちが容易に従ってしまうのは人の声、或いは自分の声です。だからこそ私たちは、心を静め、耳を研ぎ澄まして、御言葉、祈り、礼拝のうちに聖霊の声を聴き取り、このお方に従っていきたいと思います。
この聖霊というお方は、私たちの内に住んでいますから、実はいつも語っているのです。そしてパウロとバルナバを召したように、私たち一人一人の人生にも計画を持っておられます。ここで聖霊は「バルナバとサウロを聖別し、わたしが召した働きにつかせなさい」と言われました。この「召した」という言葉、これは昨日や今日の話ではありません。遥か以前から深く練られた計画があって、その働きのために聖霊はバルナバ、サウロを選んでいたのです。そして遣わされたバルナバ、サウロは実に豊かに用いられていきます。聖霊はそのように私たちの人生にも計画を持っています。私たちが豊かに用いられ、良き実を結ぶようにと招いておられます。聖霊は私たちにも、そしてあなた自身にも語っています。ですから聖霊の声が、自分や人の声にかき消されることがないよう、この細き御声と言われるお方の声を聴いていきたいのです。三位一体の神の中で、もっとも恥ずかしがり屋と言われる、このお方の声を聴き分け、従っていきたいのです。そこには幸いな計画があるからです。だから聖霊、御霊の声に耳を傾けたいのです。私たち家族も、その声を聞いて今から16年近く前に宣教師として台湾へ渡っていったのでした。
- 受けるよりも与える幸い
この聖霊の導きに応え、アンティオキア教会はバルナバ、サウロを遣わします。これは初めての宣教師派遣と言われますが、宣教師派遣が個人の熱意や使命感によるのではなく、聖霊の導きによるものであったという、このことを心に留めたいと思います。宣教師派遣は聖霊の導きによる。そして教会はそれに応えていったのでした。
ここを読む度に印象的なのは、聖霊の導きに応えていく教会の速やかな態度です。特にバルナバ、サウロという、教会で最も存在感のあったリーダー二人を、生まれて間もない若い教会が速やかに派遣していったこと。これは大きな犠牲です。教会の払う犠牲としては、経済的な犠牲以上に人的な犠牲の方が実は大きいのです。教会はキリストのからだと言われます。教会活動で大切なのは経済のこと以上に、やはり人です。それにも関わらず、アンティオキア教会はバルナバとサウロを潔くささげていく。それはまるで両腕二つを切り落として神に差し出すようなものでしょう。しかし、この時払った犠牲が後々、教会に豊かな祝福をもたらしていくのです。
思い起こされるのは、「受けるよりも与える方が幸い」、或いは「豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます」等々、御言葉が繰り返し教える、犠牲を払って捧げる教会や信仰者に約束された神の豊かな祝福です。振り返ると私たち谷原キリスト教会も、そうやって開拓のトラビス宣教師ご一家、そしてご一家を送り出したアメリカの教会の尊い犠牲によって始まり、今日に至りました。同盟基督教団はアメリカ、スウェーデン、スイス、そして韓国からの多くの宣教師たち、その背後にいる教会の払った犠牲によって潤され、ここまでやって来たのです。しかし、そうやって送り出した教会、クリスチャンの方々が異口同音に言われるのが、犠牲を払ったことで得た何倍もの恵みでした。主のために犠牲を払う教会、犠牲を払う信仰者は必ず祝福されます。
そうした宣教師たち、そして宣教師を送り出した教会の愛の犠牲に応えようと、受けるだけでなく与える教団になろうと、五十年以上前から同盟基督教団も海外宣教に取り組んできました。同盟もそのように犠牲を払って宣教師たちを海外に送って来たのです。誤解を恐れずに言えば、海外に宣教師を派遣した所で、同盟基督教団にとっては、経済的には一文の得にもなりません。それは犠牲であり、天に宝を積む奉仕です。でも、そうやって犠牲を払って来たから、戦後の焼け野原にわずか三十教会そこそこで再出発した小さな教団が、今日曲がりなりにも250教会近くまで成長して来たのでしょう。受けるよりも与える教会が祝福される。これは御言葉の約束です。
アンティオキア教会は、自分たちが派遣したバルナバ、サウロをその後も支え続けます。それに倣い、私たちもまた六組十名の、私たちが派遣した宣教師たちを献金をもって支え、祈っていきたいと思います。そうやって犠牲を払う時、谷原キリスト教会も豊かに潤されていくことを信じます。もちろん私たちの教会にも多くの必要があります。教会債の負担が重くのしかかっています。私も昨年から日に二回、朝十時と夜十時、返済のために皆さんと心を合わせて祈るようになりました。教会に負債があるというのは大変なことだと。長年祈って来た皆さんほどないにしろ、負債の重さというものを、私も最近ひしひしと感じるようになりました。
しかし、そうした自分たちの教会の必要だけでなく、出来る範囲で精いっぱい。しかもそれ以上に熱い祈りをもって「受けるより与える幸い」を実践する練馬のビッグハート、谷原アンティオキア教会になりたいと、御言葉に耳を傾ける中で今回強く願わされました。
私たちが宣教師になって退任までの16年間、定期的な献金で支えてくださった神奈川の茅ヶ崎同盟教会と言う教会があります。特別親しい関係ではなかったのですが、「示されたから」と16年間、祈り、尊い献金を定期的に送ってくださいました。以前は百人規模の大きい教会でしたが、16年の間に高齢化し献金も少しずつ減少。しかし祈りの熱意はトーンダウンすることなく、私は帰国の折りに足を運んで交流を温めて来ました。以前は元気だった皆さんも随分年をとり、昨年秋に最後の訪問をした折には、胸に迫る思いがありました。同盟基督教団から派遣されたからとの、ただその一事のゆえに、今は年金生活者が増え、高齢化した教会の皆さんがこぞって集まり、自分の息子、娘のことのように私たちの十六年の守りを喜んでくださいました。
聖霊の導きによって与えられた、この掛け替えのない繋がりと交わりは宝です。今日は国外宣教デーでもありますが、私たちの教会もまた、そんな宣教師たちとの交流、友情が深まればと願っています。もちろん、教会会計を圧迫するような捧げ方をする必要はありません。それでもなお、幾ばくかの犠牲を伴う献金と大きな祈りをもって国外宣教を支え、練馬のアンティオキア教会になれたらと願います。
省みて、私たちはどれだけ多くの恵みを神さまからいただいて来たでしょう。神はすべての恵みを与えつくし、御子イエスさまの命さえ捧げてくださいました。その溢れる恵みの一部だけでも捧げ、「受けるより、与える幸い」を味わう教会とさせていただきたい。聖霊は、教会をそのような与える恵みへと導いていかれるのです。お祈りします。
天のお父さま、感謝します。聖霊を通して語られるあなたの御声にいつも敏感であらせてください。私たちの教会をキリストにあって一つに結び、受ける以上に与える幸いを味わう教会として成長させてくださいますように。私たちのために命さえ捧げてくださった、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!